2019年12月19日

ノモンハン事件の真相、そもそも満州は日本の国土だったのだ

なぜノモンハン事件が起きたのか。なぜ関東軍が━そしてソ連軍も━なぜ双方数万の犠牲を払ってまであの大草原で僅か十三キロしか違わない国境に位置に固執したのか

チンギス・ハーンが源義経だったならば溥儀を擁立して日本が承認した満州国を世界は認めないわけにはいかなくなる

異聞太平洋戦記 柴田哲孝

この物語は事実に基づいたフィクションである



ノモンハン事件
昭和十四年(一九三九)年夏、当時の満州国と外蒙古との間に起きた国境紛争である。日本-中でも関東軍ーは、満州国建国以来、国境はホルンバイルの西に流れるハルハ川にありと主張。だが外蒙を援助するソ連はそれより十三キロ東にあるノモンハンが国境であるとして相譲らなかった。

理解し難い部分は残る。関東軍は-そしてソ連軍も-なぜあの広漠としたホルンバイルの大地で僅か十三キロの国境線の位置に固執し、双方合わせて五万五千人もの犠牲者を出さなければならなかったのか。世界地図に記せば誰も気付かないほどの微差の中に、軍事拠点となる重要な都市も、資源も、存在しないのである。

事実、当時の大本営は満州国境にはまったく無関心だった。位置については国境を警備する関東軍に一任し、多くの参謀が"ノモンハン"の地名すら知らなかったという。大本営作戦部長の橋本群中将などは、第二十三師団が激選を繰り広げていた七月七日の時点ですら、「・・・あのような大砂漠、なんにもない不毛遅滞を、一〇〇〇メートルや、二〇〇〇メートル局地的に譲ったとしても、なんということもないだろうに・・・」など信じ難いことことをいっている。その間もに、数千数万の兵が命を落としていった。

昭和十四年(一九三九)年三月八日-満州国境警察の一小隊が、定例の巡察任務中にノモンハンの七三一高地で蒙古服を着た男が一人と馬が倒れていた。男は胸に銃弾を受けていた。男の名は、波間高光。波間は自分がハルピン特務機関に所属すると告げる「ハイラルの八雲大尉」にといって密書とライカのカメラ一台を託した。密書には、次のように書かれていた。

<三月七日未明、我ラ、タギ湖東岸ニテ蒙軍斥候小隊ト交戦セリ、伊藤、小暮ノ両君戦死。我ノミ帰還の途中、同日夕刻ニ、一輪の花ヲ発見セリ>

「当時我々の正式な身分はハルピン特務機関員でした。波間君も伊藤、小暮の両君も私の直属の部下でした。彼らは、内蒙の民間人になりすまし、満蒙国境付近の情報収集に当たっていた。しかし波間君のそこで亡くなりました・・・」

「私の祖父もですが」

「そうです。あたなのお爺様は関東軍に籍を置いてました。しかし、それは仮の身分です。お爺様もハルピン特務機関員、私の腹心の部下でした」

「ハルピンの天台宗極楽寺は、一般に北満への仏教布教の本拠地として知られています。しかしその実態は、陸軍が後ろ盾となる特務機関員の養成施設でした。いわば陸軍中野学校の全身、その卒業生がハルピン特務機関へと送り込まれたわけです。私もお爺様も、昭和九年卒の第一期生でした。」

「その波間という方は、いったい何を発見したのですか。"一輪の花"とは・・・」

極寒の三月初旬の満蒙国境付近に、花など咲いているはずがない。

「"一輪の花"とは、我々の暗号です。その意味は私と数人の部下を含め、ごく一部の者しか知りえぬ極秘事項でした。いはまただ、その後の関東軍の作戦において重要なもの、満州国の存亡に係るとだけ申しておきましょう・・・」


「手懸りは、波間君が残したライカのカメラだけです。中に入っていたフィルムには"一輪の花"を含め、周囲の風景や特徴的な岩などその場所を示す何枚かの写真が写っていました。それを・・・新京の甘粕正彦に報告しました」

三月十一日、八雲一行は軍用トラックでホロンバイルを目指した。八雲を筆頭に甘粕正彦直属の関東軍特務機関員が五名。さらに八雲と祖父の二人は現地の妻を連れて行った。当時極楽寺で訓練を受けた者は卒業と同時に妻を娶ることが慣例となっていた。ハルピンや新京などの都市部に赴任する者には日本人妻を、満州の僻地や特に満州国国境地帯で情報収集に当たる者には現地人の妻が与えられた。遊牧民や現地人の商人に成りすまして活動するためには、妻がいた方が都合が良いとされていたからである。八雲の妻の名はテブ、祖父の妻をマラルといった。

国境が曖昧だった。関東軍がハルハ川を国境と主張しはじめたのが昭和十二年の秋頃です。しかし当時、外蒙と同盟関係にあったソ連は、昭和九年時点で兵要図に国境をハルハ川の東岸十三キロの地点と定めていた。実際に同年関東庁の地図でも、国境はソ連側の主張する位置に書き込まれていたのです」

「しかしなぜソ連軍は、外蒙兵に川を渡ることを許したのでしょう。彼らは、関東軍の主張する国境線も知っていたはずです。放牧のために外蒙兵を越境させ、わざわざ問題を大きくする必要はなかったと思うのですが。むしろソ連は、外蒙兵を使って関東軍を挑発していたようにも取れますね」

「そのとおりです。外蒙兵は国境を侵犯するだけでなく、内蒙の民間人に対して日常的に略奪や暴行を繰り返してました。明らかに、挑発です」


捜索は難航した。ホロンバイルの大地は、ともかく荒涼として広大である。いわゆるノモンハン事件の戦場となった一地域に限定しても、カンジュル廟から七四二ノロ高地まで南北およそ六十キロ、ハルハ川から将軍廟までの東西ですらおよそ三十キロに及ぶ。その間に目印となるものといえば、ゆるやかな丘陵や涸れた湖、わずかに地面から突出した小さな岩や石以外には何もない。手懸りは、死んだ波間高光の残した密書と数枚の写真。さらに一行が敵軍と交戦したタギ湖東岸とい位置と満州国境警察の一小隊が波間を発見した七三一高地という地点だけだ。この間、直線距離でおよし一〇キロ。しかも波間がどのような経路を辿って七三一高地に至ったのかはわかっていない。

ハルハ川を巡る国境紛争に躍起になっていたのは、関東軍だけではない。外蒙軍の後ろ盾となるソ連もまた、ジョセフ・スターリン書記長の命によりハルハ川西岸に軍備を終結。まるで自国の国境紛争のように戦闘に加担した。当時のスターリンは、「何かに取り憑かれているようだった」ともいう。」

五月二十三日深夜、山県武光大佐率いる歩兵六十四連隊第三大隊(山県支隊)約八百名がハイラルを出立。これに東捜査隊二百二十名。自動車部隊他を加え約千六百名の大軍がカンジュル廟に集結した。

二十八日未明、歩兵六十四連隊出撃。だが結果は目に見えていた。しかもその時、山県支隊は常識で考えられないような作戦行動を取っている。まず自動車部隊はトラックに兵を乗せ、「灯火を点けたまま」ハルハ川、ホルステン川に向けて前進。これではわざわざ闇に乗じて出撃した意味がない。さらに兵力が不利であるにもかかわらず、「敵の退路を遮断し外蒙よりの援軍を防止」として東捜査隊を川又の軍橋に向けた。兵法のイロハを無視した戦力の無駄な分散-すなわち愚挙である。さらに山県は、機動力を持たない主力歩兵部隊をホルンバイルの広大な大地にちりがめるように、広く展開させた。その結果、ソ蒙軍との交戦地帯はハルハ川東岸に南北三〇キロに及んだといわれる。いくら関東軍第二十三師団が勇猛でも、これでは勝てるわけはない。その結果、五月三十一日までに歩兵第六十四連隊は百十八名が死傷、もしくは行方不明、南部三角地帯で孤立した東捜査隊は三百二十名がほぼ玉砕した。当日午前九時四十分、小松原師団長は全部隊に退却命令を下す。これをもって、第一次ノモンハン事件は収束した。

「戦闘が起きていた間、八雲さんたちはどうされていたのですか。つまり、例の"一輪の花"の捜索は・・・」

「甘粕から一時中止命令が出され、ハイラルに待機してました。それが奇妙なのですが・・・。命令が出されたのは四月三十日。五月十日をもってハイラル川東岸を離脱、同二十五日まで待機せよという内容でした」

確かに、妙だ。甘粕正彦は、第一次ノモンハン事件がいつ始まり、いつ収束するのかを四月三十日時点で知っていたとしか思えない。いや、それ以前からか。甘粕は三月に辻参謀をハイラルに送り込んでいる。

他にもまだ妙なこっとがある第一次ノモンハン事の総攻撃が始まる前日の五月十三日、東京から四人の陸軍参謀がハイラルを訪れていた。辻は後に自ら手記の中で「幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはいない」と語っている。そのような僻地に、なぜ事件前日に都合よく、大本営陸軍部の参謀が四人も居合わせたのか。そしてこの十三日を境に、小松原師団長は態度を急変させた。これがすべて"偶然"のわけがない。

「すべては"一輪の花"に起因するのではありませんか」

「そうかも、しれません。いや、そう考えた方が自然でしょう」

「その"一輪の花"の秘密を知っていたのは誰なのですか。八雲さんと私の祖父、そして甘粕正彦の他には・・・」

「確かなことはわかりません。しかし、少なくとも大本営参謀本部の何人かの耳には入っていたはずです。特に作戦課長の稲田正純大佐は、確実に承知していなくてはならない。他には関東軍の大内孜参謀長でしょう」

「五月十三日に日本から四人の参謀がハイラルを訪れていましたね。その四人の名前がわかりますか」

「作戦課長の稲田大佐、荒尾興功少佐、他に櫛田正夫少佐、井本熊男少佐の四名でした・・・」

昭和十四年当時の大本営陸軍参謀本部第二課(作戦)の作戦参謀は計十二名。すべえ陸大でのエリートだった。その中から二課筆頭の稲田、さらに荒尾と、上位二名を含む四名があの時期にハイラルで顔を合わせていたことになる。記録には「現地視察旅行」と期してあるが、そのようなことはあり得ない。五月十三日当時のハイラル━すなわちノモンハン周辺━が、大本営にとってもいかに重要な作戦地点であったかを物語っている。

ノモンハン事件は、すべて辻参謀を筆頭とする関東軍の暴走によって引き起こされたとする説が、現在
は歴史的定説となっている。だが状況証拠を分析すれば、陸軍参謀本部の一部が画策し、作戦の主導的立場にあったことは否定できなくなる、そう考えれば小松原師団長の急変にも説明がつく。

「辻参謀はすべてを知っていたのですか」

「いえ、おそらくあの時点では知らされてなかったはずです。彼は、笛を吹けば踊る。甘粕の計算どおりに踊らされた操り人形にすぎません」

甘粕は辻の性格を熟知し、行動を予測した上でハイラルに転属させたということか。

「小松原師団長も同じでしょうか。彼も、知らなかった・・・」

「小松原はまた別でしょう。彼は、ハルピン特務機関の機関長の時代から甘粕と昵懇でした。事前に甘粕から、もしくは五月十三日の時点で稲田大佐からすべてを聞かされていたと考えた方が自然でしょう」

横の線が繋がり、ノモンハン事件の全体像が少しずつ浮かび上がってくる。

「それにしてもなぜ小松原は、あのような無謀な作戦を・・・」

「それは違います。小松原は、ハルピン特務機関の機関長だったほどの男ですよ。むしろ、切れる男です。任務のために、自分の名誉も含めすべてを犠牲にする術を心得ていた。なぜ自動車部隊に投火を点けたまま走らせたのか・なぜ東捜査隊を三角地帯に置き去りにしたのか。目的は偏に、山県支隊の本来の任務を支援することにあった。つまり、囮です」

それで読めてきた。山県支隊のハイラル出動は五月二十三日の午前零時半。その未明にカンジュル廟に入り、二十八日早朝まで待機を命じられたとする記録がある。この空白の五日間に、何が行われたのか━

「ですね」

「そういうことです。実際に山県支隊の教育にあたったのは、私でした。私はホロンバイルの地図を前に、特にタギ湖から七三一高地、バル西高地周辺の地形と特徴について詳しく説明しました。その上で各小隊の小隊長を集め、亡くなった浅間君の残した写真━"チンギス・ハーンの墓"の目印となる特徴的な岩の写真━を一枚ずつ手渡しました。そして、その岩を発見し次第、本部に報告するように伝達しました。もちろん"一輪の花"もその意味についても教えてはいませんが・・・」

山県支隊は、危険を覚悟で八百名の兵員を南北三〇キロにわたり広く展開させた。なぜなのか。彼らはソ連、外蒙軍と戦う使命の他に━本来の目的━ホロンバイルの草原に"一輪の花"を発見するという密命を帯びていた。そして自分たちが何を探しているのかすら知らされることなく、広野の軀と化した

山県支隊がカンジュル廟に入った翌日の五月二十四日、新京の関東軍大内参謀長より小松原師団長宛に<━"目的"を達したる後、すみやかにハイラルに帰還せしむるを可とす━>という命令が入っている。電文はあくまでも、"目的"であり、外蒙軍"捕捉、殲滅"とはなっていない。関東軍参謀長からの重要作戦に関する命令としては不自然なほど曖昧だ。つまり"目的"とは、"一輪の花"発見を意味したということか。大内と小松原の間で話が通じていれば、用は足りる。

「それで、"一輪の花"は見つかったのでしょうか」

「いえ、発見できませんでした・・・」

五月二十六日、八雲と祖父の一行はホロンバイルに戻った。

五月三十一日をもって全軍がハルハ川に退却した。これを機に、一行は、任務を再開する。だがホロンバイルの夏の夜は短い。日没から夜明けまでの捜索は、一向に進まなかった。

一方、戦闘で大打撃を受けた関東軍は、すでにノモンハン事件は終わったものと信じきっていた。実際に六月四日、新京で行われた関東軍の兵棋演習の場において、辻参謀はノモンハン事件の終結を宣言している。

だがその裏で、ソ連軍は不穏な動きを見せていた。六月五日、スターリンの命によりフェクレンコ第五十七特別狙撃師団長を解任。ソ連軍随一の知将として知られるジューコフ中将を同師団長に就任させた。ジューコフは狙撃師団の他に戦車旅団、砲兵連隊、飛行旅団などの大部隊を率いて即日満蒙国境へと向かい、ハルハ川西岸のハマル・ダバ山に司令部を置いた。

六月十八日、第二次ノモンハン事件は意外な形で幕を開くことになった。まず突然満州国領土内に飛来したソ連軍機十五機がハロンアルシャン方面を爆撃。さらに翌日十九日には第二十三師団が駐屯するカンジュル廟が大規模空爆を受け炎上した。

「いったい、スターリンは」何を考えていたのか・・・」

「そうスターリンなのです。しかも彼は満蒙国境に、ソ連軍の事実上ナンバーワンといわれるジューコフを派遣した。さすがにそこまでは、大本営の連中や甘粕も読めなかったようです」

おかしい。当時、ソ連を取り巻くヨーロッパの情勢は、ヒトラーの動向を含め緊張の極限にあった。ドイツ軍のポーランド侵攻を控え、大草原の国境紛争に力を入れている場合ではない。しかもその国境は、ソ連には直接関係のない満蒙国境である。第一次ノモンハン事件が収束してひと月もしないうちに、あえてソ連側から第二次ノモンハン事件を引き起こす理由が思い当たらない。

「関東軍が、なぜ国境をハルハ川とすることに固執したのかは理解できます。例の"一輪の花"ですよね。しかしソ連軍は・・・」

「情報が、漏れていた。スターリンも知っていたのです。"一輪の花"の存在を・・・」

それなら納得できる。"一輪の花"とはソ連にとってもそれほど重要な意味を持つ存在だったということか。だがどこから情報が漏洩したのか。

「ソ連軍はかなり以前━第一次ノモンハン事件の前からある程度の情報を得ていた節がある」

確かにそうなのだ。すでに四月から、外蒙軍の動きは慌ただしくなりはじめていた。さらに五月十二日、七百騎に及ぶ軍勢でハルハ川を越境し、第一次ノモンハン事件の火種を撒いたのも外蒙軍である。その動きの裏には、"一輪の花"の情報があったということか。

「ではどこから情報が漏れたのですが」

「ゾルゲです。それしか、考えられない・・・」

「確証はあるのですが。ゾルゲだという」

「ゾルゲは満鉄の尾崎など、甘粕の周囲にも深い人脈を持っていた。大本営参謀本部もしかり。日本陸軍、関東軍の動きをスターリンに報告していたことは、彼自身が裁判の中で認めています」

「その中に、"一輪の花"の情報もあったということでしょうか」

「私は、そう考えています。あの年の六月四日でした。ゾルゲ配下のブケリッチが日本陸軍の招待を受け、ハイラルを訪れているのですよ・目的は、満蒙国境付近の視察旅行です。これが、偶然だと思いますか。我々も迂闊でした・・・」

六月四日。確かに、偶然だとは思えない。翌六月五日にスターリンはフェクレンコを解任。ジューコフはハルハ川の満蒙国境に向かっている。

「後の歴史は知ってのとおりです。ソ連軍の挑発を受けて、辻参謀をはじめ関東軍が暴走をはじめるわけです。陸軍省は事の重大さに気がつきますが。後の祭りでした。誰も暴走を止められなかった・・・」

八月二十九日、ノモンハン事件は第二十三師団の玉砕をもって幕を閉じた

"私は"訊かなくてはならない。ノモンハン事件の陰で、何が行われたいたのかを。

「なぜノモンハン事件が起きたのか。なぜ関東軍が━そしてソ連軍も━なぜ双方数万の犠牲を払ってまであの大草原で僅か十三キロしか違わない国境に位置に固執したのか。すべては"一輪の花"の存在に由来する。それはわかります。しかし・・・そもそも"一輪の花"とはいったい何だったのですか」

「私がこれから話すことを、信じいただけますが・・・


「もちろんです・・・」

「ある偉大な人物の墓です。我々が探していたのは・・・"一輪の花"とは・・・あのチンギス・ハーンの墓だったのです」

「チンギス・ハーンは、ヘンティ山脈の起輦谷に葬られたと聞いてます。違うのですか。」

「確かに、それは定説です。しかし、違うのですよ。ヘンティ山脈・・・。それは後の中国やソ連がチンギス・ハーンの研究者を惑わすために流した捏造です。根拠など、何もない」

「なぜそういい切れるのですか」

「我々が、ホロンバイルでチンギス・ハーンの墓を、実際に発見したからですよ・・・」

十一月に入って間もないある日、八雲一行はバイン・ツァガン山の東斜面で墓を発見した。蒙古の英雄チンギス・ハーンは、ハルハ川の悠久の流れとホロンバイルの大草原を見下ろす大地に眠っていた。

「それは確かにチンギス・ハーンの墓だったのですか」

「間違いありません。入口には、確かに波間君が写した写真と同じ岩がありました。岩の裏には人が一人やっと通れるほどの横穴があり、それを下っていくと、周囲を石積で囲まれた広い石室に突き当たります。装飾品は、何者かによってすでに持ち去られていました。しかし、チンギス・ハーンの墓であることを示す墓石がひとつ。おそらくその下には棺が埋められていようことは、調べるまでもなく明らかでした」

「チンギス・ハーンの墓は、いまでもバイン・ツァガン山に存在するのですか」

「いえ、残念ながら。我々が発見した直後、ソ連軍の手によって爆破されました」

我々が探していたチンギス・ハーンの墓には満州国の存亡が懸かっていたと。当時のソ連と中国にとって、墓の存在はきわめて都合の悪いものでした。特にスターリンはチンギス・ハーンの亡霊を畏れてさえいた。かっての蒙古軍は、南部ロシアからウクライナまで広くロシア領土を制圧した記録がある。歴史上、ロシアをそこまで侵略したのはチンギス・ハーンだけです。しかしそれだけではない。スターリンがソビエト国内や外蒙古、さらに中国に残るチンギス・ハーンの末裔に対し、長年にわたり徹底的に粛清を加えてきたことは歴史的事実です。スターリンはかっての蒙古の英雄の血筋を根絶やしにし、歴史そのものを墓と共に葬り去ろうとしていた

「八雲さんと私の祖父の妻、テブとマラルとはいったい何者だったのですか」

「彼女たちはキャト氏族の女です。スターリンに迫害されたチンギス・ハーンの末裔、その数少ない生き残りだったのです。二人は。先祖から代々伝わる歌によって、ンギス・ハーンの墓の位置を語り継いでいました。墓を発見して守ること・・・それが一族が彼女たちに与えた使命だったのです」

八雲たち一行は、懐中電灯の光の中で、石室の中の風景に見とれていた。現実のものとは思えないような光景だった。だがしばらくして、石室の奥に続く通路に、八雲は異様なものを発見した。大量の爆薬を仕掛けられていたのである。

「ソ連軍が、すでに発見していたということですが・・・」

「そうです。いま思えば、ハルピン特務機関に対する罠だったのでしょう。我々は、すぐに墓を出ました。しかしハルハ川の渡河地点に向かう途中で、突然マラルが引き返すといいだした。自分一人で、爆薬を処理すると。彼女にとってもチンギス・ハーンの墓は、一族の在亡が懸かる大切なものだったのです。我々は、止められなかった。そしてマラルが墓に戻った直後、まるでバイン・ツァガン山が噴火したような大爆発が起きた・・・」

「その後どうなったのですか」

「我々は追っ手を逃れ、ハルハ川を渡り、ハイラルに戻りました。そこで事態を甘粕正彦に報告、任務を解かれました。そお時の甘粕の失望たるや、まるでこの世の終わりを覚悟したかのような有様でした。」

「そもそも軍部は━甘粕正彦はなぜチンギス・ハーンの墓に注目したのですか。テブやマラルの存在だけがその理由ではありませんね。それ以前に、何らかの発端があったはずです」

関東軍がハルハ川を国境と強引に主張しはじめたのは、満州国建国の五年後の昭和十二年だった。

「当時北京宮廷の書庫に、『図書輯勘録』という全三十巻に及ぶ書がありました。代々の清朝皇帝が編纂した国史です。本来は門外不出の秘書でしたが、その写本が日本の内閣文庫に一組、さらに大英図書館とエール大学にも残ってました。そしておそらくモスクワにも」

なぜチンギス・ハーンの墓が満州国の存亡を左右するのか。満州建国と日本による統治に最も危惧を持っていたのはイギリスだった。


元英国公使だったデビスの書『清国総録』の中に、次のような有名な一文がある

<成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は、明朝のために放逐され、蒙古の故地及び満州に逃れ長の娘と結婚して諸公子を産んだ。彼らは朔地に割拠して威勢をふるい、後に大挙して明朝を滅ぼし、国を清とした。清帝を成吉思汗の孫、忽必烈の末裔とするのは。けだし、このためである>

一九三二年三月、日本は清王朝の後裔に当たる愛新覚羅溥儀を執政に擁立し、満州国を建国。九月に『日満議定書』に調印し正式に承認した。元来溥儀の祖となる清朝の開国については歴史の謎とされ、中国は現在もその秘密を明らかにしていない。だがイギリス国家の公職にあったデビスは、自著の中でチンギス・ハーンのの末裔であったと論じているのである。

「我々がチンギス・ハーンの墓石に見たものは、笹竜胆ですよ・・・」

笹竜胆は清和源氏の家紋である

清朝の六代皇帝、乾隆帝は、『図書輯勘録』の序文に、清国開国の故として次のように書いている。
(朕の姓は源、義経の裔なり。その先の清和に出ず。故に国を清と号す)

チンギス・ハーンは源義経だった。もしデビスのいうとおり清王朝がチンギス・ハーンの後裔であるとすれば、溥儀を擁立して日本が承認した満州国を世界は認めないわけにはいかなくなる。なぜなら満州の国土に初めて国家を築いたのはチンギス・ハーン。つまり源義経となるからである。そもそも満州は日本の国土だったのだ
posted by 珍道中 at 00:52| 戦争